また、筆者もメジャー・デビュー当時から彼らのライヴを観続けてきたが、先頃のツアーでそうした歴史ある楽曲群に触れて感じたのは、愛着深い懐かしさよりも、各楽曲の素性を改めて知るかのような興奮だった。目の前にある2022年なりの現実と過去の記憶を重ねてみた時に、かつては気付かずにいたそうしたものを感じ取ることができたように思えたのだ。それは、同じバンドやアーティストの作品やライヴに長い年月にわたり接して続けてきた人たちだけが味わうことのできるものではないかとも感じさせられた。
もうひとつ重要なのは、この演目が過去にだけ焦点を絞ったものではないということだ。ライヴの中盤では、去る6月にリリースされた最新アルバム『PHALARIS』の収録曲であるThe Perfume of Sins、朧、そして13が披露されたが、そうした場面が全体の流れにおいて妙に浮き上がることがなかったのは、彼らの音楽の中にずっと貫かれてきたものがあり、なおかつ遠い過去に生まれた楽曲たちにも現在なりの成熟感や説得力といったものが加わっていたことの証だといえるだろう。加えて、会場規模ゆえに通常の彼らのライヴのような映像を伴う演出は皆無ではあったものの、それにより逆に、ステージから聴こえてくる生々しい演奏に集中できた部分もあったように思う。
具体的な演奏内容については別掲のセットリストをご参照いただくとして、この場ではあまり詳しく描写せずにおくが、京の口から聞こえてくる歌詩の端々にハッとさせられる瞬間がいくつかあった。彼が本来の歌詩を100%そのまま歌うわけではなく、その瞬間の感情をそこに乗せることが多々あるのはよく知られているはずだが、この夜、THE FINALが披露された際には「無くしたモノは二度と戻ってこない」という言葉が聞こえてきた。元々の歌詩は「無くしたモノはもう産まれない」である。彼らにとっても我々にとっても、かつてのような当然のライヴ環境というのは、一度失われたものということになる。それが今回の声出し解禁に象徴されるように修復されつつあるのは間違いないが、コロナ禍以前と同じ状況を完全に取り戻せているわけではないし、まったく同じ状況をふたたび手に入れることは叶わないのかもしれない。京自身がそこで何を意図していたかはわからないが、筆者にはそうした今現在の現実について感じずにはいられなかった。
終盤になると京の扇動はエスカレートし、Shinyaが鞭を打つようにドラムを叩き始めTHE ⅢD EMPIREが始まる直前には「おまえら死んでんのか? 生きてんだろ!」、アンコールで激しさと、この胸の中で絡み付いた灼熱の闇の大合唱を経た後には「俺の記憶にあるおまえらはこんなんじゃなかったよな!」「生きてんだろ? じゃあ死ねるな!」といった発言も飛び出した。そして最後の最後に羅刹国が始まると、彼は「俺と一緒に死のうか」と呼びかけた。それが「一緒に限界まで行こうじゃないか」という意味であるはずだということを捕捉する必要はないはずだが、「死ねる」のは「生きている」からこそであり、ライヴをとことん楽しむこともまた、生を謳歌する手段のひとつなのである。
そして京の口からは「おまえらの声を聴かしてくれ!」という言葉も発せられた。本来はごく当たり前の言葉だが、この言葉を発することができる演者側の喜び、そしてそれに全力で応えることができるオーディエンスの喜びが、場内に渦巻いていた。アンコールを含めて全19曲、約1時間50分に及んだこの夜のライヴは、こうして幕を閉じた。制限を緩和した形でのこうしたライヴが無事に終了したこと自体に価値があるはずだし、これがこの先のさらなる自由奪還へと繋がっていくことになるのを期待したい。そして声出し解禁ではあっても四六時中声をあげ続けるのではなく、歌うべきところで歌い、たとえばain’t afraid to dieの前後といった静寂を守るべき場面では沈黙を続けるオーディエンスの姿には「このバンドにして、このファンあり」と感じさせられた。
DIR EN GREYには、この大晦日には東京・ガーデンシアターでの『50th NEW YEAR ROCK FESTIVAL 2022-2023』への出演も控えているが、今回の追加公演をもって25周年ツアーは終了。2023年4月に開幕する次回のツアーは『PHALARIS』に伴う二巡目の全国ツアーということになる。その頃に声出しが全面的に解禁されているのか、マスクの着用が欠かせないままなのかはまだわからない。ただ、この夜に彼らとオーディエンスが踏み出した一歩には、大きな意味と価値があったはずである。
